丘浅次郎の名言紹介を続けます。
「そもそも人類の生存競争はいかなるものの間に行なわれるかというに、個体間にも行なわれ、団体間にも行なわれ、団体という中にももっとも大なるものからもっとも小なるものまで、その間に無数の階級があるが、いずれの階級の団体でも、互いの間にはことごとく生存競争が行なわれているのである。県会議員や市会議員になりたがる候補者間の競争、同じ町内に同じ商売をする店と店との競争、長らくある事業を独占していた旧会社と新たに設けられた同種の会社との競争、なるべく多数を占めて早く勢力を張らんとする政党間の競争などは常に目前に見ることであり、毎日の新聞紙上にも出てくるゆえ、特に例をあげる必要はない。かくのごとく人類の生存競争はいずれの階段にも必ずあるが、そのいちばん上に位(くらい)する階段は現在のところでは国である。人類が国を成して生存し、国と国とが互いに対立している以上は、国内における個人間の競争でも、小団体間の競争でも、むろん敵国に対して自国を危うくする心配のない程度に限られねばならぬ。道徳や法律はそのためにできたもので、もし国内の者がみな道徳や法律を眼中におかず絶対に相争うたならば、その国はたちまち敵の乗ずるところとなって、一刻も存在することはできぬ。すなわち人類の個人間または小団体間の競争はなおその上に位する国という団体のために常に制限せられているから、単独生活をして思うままに最後の勝負までを争う野獣の生存競争とは全くわけが違う。これに反して、人類の生存競争における最大単位なる国と国との競争になると、もはや少しも制限せられるところがないから、全く猛獣の相戦うのと異ならず、強ければ勝って栄え、弱ければ負けて衰える。これは歴史上の事実を見ても現在の状態を見ても、きわめて明らかに知れることで、人類の生存競争もこの階級まで押し詰めてくると、虎や狼の咬み合い殺し合いと毫末も(ごうまつも。「少しも」の意。)違わぬ。」
上記言葉は私達の日常生活における何気ない諸活動が、実は生存競争の一環であることを示しつつ、それを調整・解決する手段として道徳・法律が存在するのだと分析しており、面白い視点だなあと感じます。
それでは今回はここまでとして、次回はこの続きからご紹介しましょう。
(文責:弁護士 澤村康治)