夏目漱石の名言紹介を続けます。
「『デクインシー』曰(いわ)く『世(よ)には人心の如何(いか)に善にして、又(また)如何に悪なるかを知らで過ぐるものあり』と。他人の身の上ならば無論の事なり、われは『デクインシー』に反問せん。君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと。豈(あに)啻(ただ)善悪のみならん、怯勇(きょうゆう)剛弱(ごうじゃく)高下(こうげ)の分、皆(みな)此(この)反問中(はんもんちゅう)に入(い)るを得(う)べし。平(たいら)かなるときは天(てん)落(お)ち地(ち)欠(か)くるとも驚かじと思へども、一旦(いったん)事(こと)あれば鼠糞(そふん)梁上(りゅうじょう)より墜(お)ちてだに消魂(しょうこん)の種となる。自(みずか)ら口惜(くちお)しと思へど詮(せん)なし。」
意訳すると「『デクインシー』(注:イギリスの評論家:トマス・ド・クインシー)が言うには『世の中には人の心がどのくらい善で、またどのくらい悪であるかを知らないで過ごしている者がいる。」とのことである。他人のことに関しては、そのように思うのも当然であるが、私は『デクインシー』に反問したい。『君は君自身がどのくらいの善人で、またどのくらいの悪人であるかを分かっているのか?』と。これはただ善悪の問題だけではないであろう。臆病さと勇敢さ、強さと弱さ、能力の優劣など、全てこの反問の中に入れることができるであろう。平穏なときには天が落ち地が欠けても驚くことはないだろうと思っていても、ひとたび異常事態に直面すれば、ネズミのフンが梁(はり)の上から落ちただけでも、驚きのあまり気力を失うほどの原因となる。自分でも悔しいと思うが、どうしようもない。」といった所でしょうか。
普段の人間性と異常事態に直面したときの人間性との違いが浮き彫りになる具体例として、平家物語の中のとあるエピソードがこの後に出てきます。
次回はその辺りをご紹介したいと思います。
(文責:弁護士 澤村康治)