森鴎外の名言紹介を続けます。
「こゝ(ここ)で私は心理學(しんりがく)の歴史を顧みる。前世紀に盛(さかん)に行は(わ)れた心理學は寫象(しゃぞう)と云ふ(いう)ことを土臺(どだい)にしてをつた(おった)。是(これ)が日本で教育の爲事(しごと)などに著手(ちゃくしゅ)した時代の心理學であります。物が數學(すうがく)のや(よ)うな知識の運轉(うんてん)で出來てゐるやう(できているように)に考へ(え)た。譬へ(たとえ)て見れば色々の知識が箪笥(たんす)の中に旨(うま)く順序を立ててしまつてあるやう(しまってあるように)に考へたのだ。それへ持つて行つて(もっていって)新しい知識を入れゝ(いれれ)ば、どの部分に入れると云ふやうに、人の心が發達(はったつ)して行くものと説いてある。此(この)譬喩(ひゆ)のやうに箪笥が餘(あま)り立派に出來てゐると、大きい新しい物がはいつて來た時に、どの抽斗(ひきだし)に入れようかと思つてまごつく。其中(そのなか)に入場(いれば)が無くなつてつひ/\(ついつい)それを取りそこねると云ふやうな事になる。こんな事を申して、私の意を酌み取つて下さる事が出來るか知らぬが、器量が小さいと云ふのは餘り物が極(き)まり過ぎてゐるのではないかと云ふのです。」
上記で言う寫象(写像、しゃぞう)というのは、例えばy=3xの一次関数において、x=1ならばy=3、x=2ならばy=6というように、一方の値が決まると、他方の値もそれに対応して決まるような関係のことです。「19世紀の心理学においては、人間の心もそのように形式的・機械的な対応関係を基礎にして発達していくものと考えられていた」と鴎外は言っているわけですね。
それでは今回はここまでとして、次回はこの続きからご紹介しましょう。
(文責:弁護士 澤村康治)