森鴎外の名言紹介を続けます。
「小さく物事が極まつて(きまって)居(い)るのはわるい。譬へ(たとえ)て見れば器の中に物が充實(じゅうじつ)してゐ(い)る。そこで歐羅巴(ヨーロッパ)などへ出て來て新しい印象を受けて、それを貯蓄しようと思つた所で、器に一ぱい物が入つてゐて動きが取れぬ。非常に窮屈である。さう云ふやう(そういうよう)に私は感じました。何だか締りの無いやうな椋鳥臭い(むくどりくさい)男が出て來て、さう云ふのが後(のち)に歸(かえ)る頃になると何かしら腹の中に物が出來て居る。さういふ事を幾度(いくど)も私は經驗(けいけん)しました。物事の極まつてゐるのは却つて(かえって)面白くない。今夜私はお饒舌(おしゃべり)をしますが、此(この)お饒舌に題を附ければ、混沌(こんとん)とでも云つて好(よ)いかと思ふ(う)。唯(ただ)混沌が混沌でいつまでも變化(へんか)がなく活動がなくては困りますが、その混沌たる物が差し當り(さしあたり)混沌としてゐるところに大變(たいへん)に味ひ(あじわい)がある。どうせ幾ら混沌とした物でも、それが動く段になると刀も出れば槍も出れば何でも出て來る。孰(いず)れ動く時には何かしら出て來る。けれども其(その)土臺(どだい)は混沌として居る。餘(あま)り綺麗(きれい)さつぱり、きちんとなつてゐるものは、動く時に小さい用には立つが、大きい用に立たない。小才(こさい)と云ふのもそんなやうな意味ではないかと思ふのです。」
思考や判断が凝り固まって臨機応変さや柔軟性を失ってしまうと、いざ新しい物事や状況に直面したときに適切な対処が困難になってしまう結果、かえっていろいろな虚言やデマなどに一々振り回されて右往左往してしまうようにも思われます。
それでは今回はここまでとして、次回はこの続きからご紹介したいと思います。
(文責:弁護士 澤村康治)