森鴎外の名言紹介を続けます。
「さて人の器の大きい小さいと云(い)ふ(う)ことを見るのはどう云ふ所で見るだら(ろ)う。例之(たとえ)ば津和野(つわの)にをつた(おった)者が東京に出て來る。或(あるい)は内地(ないち)にをつた者が洋行(ようこう)すると云ふ場合に、隨分(ずいぶん)人の大きい小さいが見えるや(よ)うに思ひ(い)ます。私の津和野を出た時は僅(わずか)に十四ばかりの子供であつ(っ)た。それだから人を觀察(かんさつ)するどころではなく、何も分からなかつた。後(のち)に洋行した頃になると、私も二十を越してをりました(おりました)から、幾らか世の中の事が分かるやうになつてゐ(い)ました。其頃(そのころ)日本人が歐羅巴(ヨーロッパ)に來る度(たび)に樣子(ようす)を觀(み)てをりました。どうも歐羅巴に來た時に非常にてきぱき物のわかるらしい人、まごつかない人、さう云ふ人が存外(ぞんがい)後(のち)に大きくならない。そこで私は椋鳥主義(むくどりしゅぎ)と云ふことを考へ(え)た。それはどう云ふわけかと云ふと、西洋にひよこり(ひょこり)と日本人が出て來て、所謂(いわゆる)椋鳥(むくどり)のやうな風(ふう)をしてゐる。非常にぼんやりしてゐる。さう(そう)云ふ椋鳥が却(かえ)つて後(のち)に成功します。それに私は驚いたのです。」
寒い地方に住んでいる椋鳥は冬になると北から南に渡る習性があることから、江戸時代や明治時代において「椋鳥」という言葉は「田舎者」とか「おのぼりさん」というような意味でよく使われていたようです。
それでは今回はここまでとして、次回はこの続きからご紹介しましょう。
(文責:弁護士 澤村康治)