夏目漱石の名言紹介を続けます。
「加之(のみならず)個人の一行一為(いっこういちい)、各(かく)其(その)由(よ)る所を異(こと)にし、其(その)及ぼす所を同じうせず。人を殺すは一(いつ)なれども、毒を盛(も)るは刃(やいば)を加ふると等しからず、故意なるは不慮(ふりょ)の出来事と云(い)ふを得ず、時には間接ともなり、或(ある)いは又(また)直接ともなる。之(これ)を分類するだに相応の手数(てすう)はかかるべし。況(ま)して国に言語の相違(そうい)あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々(しゅじゅ)の記号を有して、吾人(ごじん)の面目を燎爛(りょうらん)せんとするこそ益々(ますます)面倒なれ。比較するだに畏(かしこ)けれど、万乗(ばんじょう)には之を崩御(ほうぎょ)といひ、匹夫(ひっぷ)には之を『クタバル』といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而(しか)も死は即(すなわ)ち一(いつ)なるが如(ごと)し。若(も)し人生をとって銖分縷析(しゅぶんるせき)するを得(え)ば、天上の星と磯(いそ)の真砂(まさご)の数も容易に計算し得(う)べし。」
意訳すると「のみならず個人の一つ一つの行為は、それぞれその原因が異なるし、その結果も同じではない。人を殺害するという行為は同じであっても、毒を盛る行為は刃で切りつける行為と同じではないし、故意の行為は過失による出来事とは言えないし、ときに間接的な殺害行為もあれば、あるいはまた直接的な殺害行為もある。これを分類するだけでも、それなりの手数がかかるであろう。まして国には言語の相違があり、人には身分の上下の区別があって、同一の事物も様々な記号を有しているため、我々の実態を明らかにしようとすることはますます面倒である。比較するだけでも畏れ多いが、天子の死は『崩御』といい、身分の低い者の死は『クタバル』といい、鳥の死は『落ちる』といい、魚の死は『上がる』といって、しかも死は同一のようである。もし人生を取り上げて詳細に分析することができるならば、天上にある星や磯にある細かい砂の数も容易に計算することができるであろう。」といった所でしょうか。
「間接的な殺害行為」というのをイメージしづらい方もいらっしゃるかもしれませんが、例えば医師が事情を知らない看護師に対して毒入り注射器を渡し、それを患者に注射させて殺害するケースなどが例として挙げられると思います。刑法学ではこれを「間接正犯(かんせつせいはん)」といいます。
それでは今回はここまでとし、次回はこの続きからご紹介したいと思います。
(文責:弁護士 澤村康治)