名言紹介の第10回目は明治時代~大正時代にかけて活躍した作家:夏目漱石の言葉です。
かなり長いので多数回に分けてご紹介していきたいと思いますが、要点を先述しておくと「人生は非常に複雑に入り組んだものであり、小説などの創作物でその全てを正確に描ききることはできない。そのように人生が非常に複雑に入り組んでいる理由は、人間の思考や行動の中には理性では制御しきれない、自然災害にも通底するような危険な側面が潜在しているため、人間は他者のことは勿論、自分自身のことすら正確に把握しきることができないからである。我々は誰もが自分自身の中に理性では制御しきれない危険性を抱えていることを自覚して、その危険性が顕在化しないように用心しながら生きていかなければならない。」というように表せると思います。
「空(くう)を割(かっ)して居(お)る之(これ)を物といひ、時に沿うて起(おこ)る之を事といふ。事物(じぶつ)を離れて心なく、心を離れて事物なし。故(ゆえ)に事物の変遷推移(へんせんすいい)を名づけて人生といふ。猶(なお)麕身牛尾馬蹄(きんしんぎゅうびばてい)のものを捉(とら)へて麒麟(きりん)といふが如(ごと)し。かく定義を下せば、頗(すこぶ)る六(む)つかしけれど、是(これ)を平仮名にて翻訳すれば、先(ま)づ地震、雷、火事、爺(おやじ)の怖(こわ)きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷義理の柵(しがらみ)抔(など)いふ意味を合点(がてん)し、順逆の二境(にきょう)を踏み、禍福(かふく)の二門をくぐるの謂(いい)に過ぎず。但(ただ)其(その)謂(いい)に過ぎずと観ずれば、遭逢百端(そうほうひゃくたん)千差万別(せんさばんべつ)、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人亦(また)各々(おのおの)千百万人の生涯を有す。故に無事なるものは午砲(ごほう)を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席(こうせき)暖かならず、墨突(ぼくとつ)黔(けん)せずとも云(い)ひ、変化の多きは塞翁(さいおう)の馬に辶(しんにゅう)をかけたるが如く、不平なるは放たれて沢畔(たくはん)に吟(ぎん)じ、壮烈(そうれつ)なるは匕首(ひしゅ)を懐(ふところ)にして不測の秦(しん)に入(い)り、頑固なるは首陽山(しゅようざん)の薇(わらび)に余命を繋(つな)ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯(ひげ)を拈(ひね)り、図太きは南禅寺(なんぜんじ)の山門に昼寝して王法を懼(おそ)れず、一々(いちいち)数(かぞ)へ来(きた)れば日も亦(また)足らず、中々錯雑(さくざつ)なものなり。」
意訳すると「空間に存在するのを『物』といい、時間に沿って起こるのを『事』という。『事物』を離れて『心』はなく、『心』を離れて『事物』はない。だから『事物の移り変わり』を『人生』と定義することができる。あたかも『鹿のような体と牛のような尾と馬のようなヒヅメを持つ生き物』を『麒麟』(注:アフリカのサバンナにいるキリンではなく、神話に出てくる伝説上の動物のこと。某飲料会社のマークとして、なじみ深い方も多いかもしれません笑)と定義するようなものである。このように定義をすれば、いささか難しいが、これを簡単な言葉で翻訳すれば、まず地震、雷、火事、親父の怖さを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷や義理のしがらみなどという意味を理解し、順境と逆境の両方を経験し、災難と幸福の両方を経験するという意味に過ぎない。ただそういう意味に過ぎないと考えれば、巡り合わせは多種多様であり、十人に十人の人生があり、百人に百人の人生があり、千百万人にまた千百万人それぞれの生涯がある。だから暇な者は正午の時報を聞いて昼飯を食い、忙しい者は食卓についたり料理を作ったりする時間すらないともいい、変化の多さは予測不能に輪をかけたようなものであり、権力者に不平のある者は追放されて沢のほとりで詩を詠み、勇ましくて激しい者は短刀を懐に隠し持って権力者を暗殺しようとし、頑固な者は節義のために仕官先を失った結果、山菜を食べてわずかな命をつなぐことになり、世の中を茶化して軽く見ている者は危険な行動を平然と行い、図太い者は寺の山門で昼寝をして国の法令を恐れず、いちいち数えあげればきりがないほど、かなり複雑なものである。」といった所でしょうか。
「心」は「事物」と不可分一体であるとして捨象してしまい、「人生とは事物の変遷推移である」とあっさり定義してしまうあたり、卓説だなあと感心してしまいます。
それでは今回はここまでとし、次回はこの続きからご紹介することにしましょう。
(文責:弁護士 澤村康治)